実習の3年間、Nguyen Ngoc Trungはいつも精一杯頑張り、日本語と技能を習得しようとしました。日本人社長から信頼を得て、たくさんの技能ノウハウと管理スキルなどを教えてもらいました。
Trungが出荷前のチェック
Trungが帰国した後、社長は日本からベトナムに工場を移動し、ベトナム支社の社長の席をTrungに譲ります。
機械掃除をしに来日したエンジニア
2002年、技術師範大学の機械製造学部を卒業したTrungはホーチミン市で安定した仕事を探すことができましたが、自分の能力を高めることと、将来起業するための資金を貯金するため、来日することにしました。
Esuhai社により、Trungは日本に行くためのいくつかの選択肢を紹介されましたが、「エンジニアではなく研修生として登録しました」。2003年2月、面接に合格し、携帯電話・デジタルカメラ・時計・自動車などの部品製造に関する企業の内定をもらい、来日しました。
最初、初めて日本の高度技術に接した瞬間、Trungはとても迷い、大変がっかりしてしまいました。なぜかというと、ベトナムで勉強した知識と日本で体験した機械が全く違うと気がついたからです。「日本の高度技術はエンジニアの私を研修生に変えました。大学の機械製造学部卒業証明書なんてまるでゼロになりました」と話しました。
最初の6ヶ月、Trungの仕事は雑巾で機械を掃除することだけでした。真面目に頑張ったおかげで、6ヶ月後にはナイフを研ぐ位置に昇格することができ、機械に近づくチャンスがありました。2年目になると、ラインの重要な機械を任せてもらうことができ、だんだん自信を持つようになりました。
「実習は3年しかないから、全部の時間・チャンスを効果的に生かそうとしました。早く仕事に慣れるため定休の土・日でも無給で仕事をさせてもらうよう頼みました。平日も、残業の後、無給で3時間ほど仕事をやらせてもらいました。そして、日本語を向上させるため、本、辞書を買ったり、テレビを見たりしました。2年目の時は、3-4時間しか休まない日もあり、ほとんどの時間は日本語と技能を勉強しました」。
Trungの真面目さと熱意は社長からとても評価されました。毎日、仕事が終わってから、社長が時間を取り、彼に技能を教えてくれました。そのおかげで、Trungの日本語能力と共に技能のレベルは速やかに進歩しました。3年目になり、機械の設計システム、分析、処理、運用などのことをさせました。特に、社長が留守の際、工場の管理をTrungに任せていました。
社長と株の 20 %
Trungの契約は2006年2月10日に満了となりました。送別会の時、社長が社長室にTrungを呼び、ベトナムに工場を移転するという話しをしました。その計画にTrungは非常に大事な地位につくことがが分かりましたが、詳しくどの役割かまだ分かりませんでした。帰国後、社長の依頼で、Trungがある1人の先輩とCuchiの土地を買い、工場の移転の手続きを完成しました。
2007年12月、従業員5人、機械5台で工場が正式に稼働しました。社名は精密部品製造O.N.Pでした。元社長はTrungの先輩ですが、2009年に退職しました。日本から機械が増え、従業員を増員した後、Trungがベトナムの社長に就任しました。現在、工場の規模は従業員20人、機械50台だそうです。
「最初、私は他の従業員と同様に、150万ドンの月給を貰いました。今、社長として、手取りは2000万ドンになりました。従業員の給与は食事代と家賃を引けば約350万~750万ドンです。」
Esuhai社のLe Long Son社長によると「今の給料はTrungの地位に値していませんが、給料の他に社長が会社の株の20%をあげました。それは、社長がTrungに長く働いてもらいたいという気持ちの他に、Trungにもっと責任を持ってもらいたい。」ということです。その株のおかげで、給与を含めずに、Trungの年収は約10億ドンに達したことが分かりました。そのお金はまた工場の投資に使われています。
Trungによれば、2013年8月末ごろ、日本での工場は閉鎖され、全部の機械を完全にベトナムへ移動することが決定されたそうです。Trungは今のまま社長の地位にとどまり、日本人の社長は取締役になります。
Tuoitre新聞より